G黷ェヘ豚汁句

December 09121999

 河豚汁のわれ生きている寝ざめ哉

                           与謝蕪村

豚汁(ふぐじる)は、河豚の身を入れた味噌汁。江戸期の河豚料理は、ほとんどこれだったという。ただし、中毒を起こして死ぬ者が多かったので禁制(解禁は明治期)。肝臓、卵巣、胃、腸などに毒あり。それでも美味の誘惑には抗しきれず、ひそかに食べ続けられた。どれだけの人が、命を落としたことか。蕪村も、かくのごとくにヒヤリとしている。もっとも蕪村はフィクションの名人だったので、実際に食したのかどうかはわからない。でも、当時河豚を食べた人の気持ちは、みなこのようであったろう。現代でも、ときどき新聞に河豚中毒の記事が載る。戦後になって河豚で死んだ最大の有名人は、歌舞伎俳優の坂東三津五郎(八代目)だろう(1975年1月16日)。口がしびれるような部分が好きだったという記事を、なんとなく覚えている。ところで、河豚の王様はトラフグ。天然物は市場で1キロ当たり二万五千円から三万円もしているようだ。とても、庶民の口には入らない。本場の下関の友人が「このごろは高うていけん」と、こぼしていた。「大衆向け料理屋で使われるのは、ショウサイフグ、マフグ、シマフグ」だと、新聞で読んだ。(清水哲男)


December 15122003

 てっちりや徹頭徹尾吉良贔屓

                           加古宗也

かりし由良之助。じゃなかった、遅かりし掲載日。昨日14日は赤穂浪士討ち入りの日だった(もっとも本来は旧暦での日付だから、一ヵ月ほど先の話だけれど)。ゆかりの赤穂市では、盛大に忠臣蔵バレードなどが行われたことだろう。一方、討たれた側の愛知県吉良町では、恒例の吉良上野介公毎歳忌がしめやかに……。季語は「てっちり」で冬、河豚汁に分類。「鉄ちり」と書き、江戸時代に河豚のことを鉄砲と言ったことから、河豚のちり鍋を言う。河豚は「当たれば死ぬ」ので、鉄砲。駄洒落である。さて赤穂浪士ファンは圧倒的に多いが、なかには作者のような熱烈な吉良ファンもいる。史実を引っ繰り返してみると、吉良は故郷に善政を敷き、庶民とも気楽に会話を交わしたなどの名君の面がある。他方、浪士が忠義立てをした浅野内匠頭はというと、切腹させられたときに地元の農民が赤飯を炊いて喜んだという話も残っている。内匠頭は良く言えば倹約家、悪く言えば大変なケチだったから、地元民に振る舞うようなことはしなかったらしい。句の作者は、吉良町に隣接する西尾市在住の人だ。昨夜あたりはおそらく「義士なんぞとは笑わせやがる」と浪士をボロクソにけなしつつ、旬のてっちりで一杯やったのではあるまいか。「てっちり」と「てっとうてつび」の音の並びが面白く、コト吉良贔屓においては頑固一途の作者像が浮かんでくる。何事につけ贔屓するには最初に動機があるわけだが、高じてくると動機の部分をはるかに越えて何から何まで「徹頭徹尾」好きになってしまいがちだ。あばたも笑窪になるのである。先日の忘年会で早乙女貢の講演を聞きに行ったという友人がいて、「吉田松陰も伊藤博文も大馬鹿呼ばわりボロクソやったで」と話していた。早乙女さんはたしか会津の出身だ。「徹頭徹尾」のクチだろう。(清水哲男)


December 23122009

 志ん生を偲ぶふぐちり煮えにけり

                           戸板康二

ぐ、あんこう、いのしし、石狩……「鍋」と聞くだけでうれしくなる季節である。寒い夜には、あちこちで鍋奉行たちがご活躍でしょう。志ん生の長女・美津子さんの『志ん生の食卓』(2008)によると、志ん生は納豆と豆腐が大好きだったという。同書にふぐ料理のことは出てこないが、森下の老舗「みの家」へはよく通って桜鍋を食べたらしい。志ん生を贔屓にしていた康二は、おそらく一緒にふぐちりをつついた思い出があったにちがいない。志ん生亡き後、ふぐちりを前にしたおりにそのことを懐かしく思い出したのである。同時に、あの愛すべきぞろっぺえな高座の芸も。赤貧洗う時代を過ごした志ん生も、後年はご贔屓とふぐちりを囲む機会はあったはずである。また、酒を飲んだ後に丼を食べるとき、少し残しておいた酒を丼にかけて食べるという妙な習慣があったらしい。「ふぐ鍋」という落語がある。ふぐをもらった旦那が毒が怖いので、まず出入りの男に持たせた。別状がないようなので安心して自分も食べた。出入りの男は旦那の無事を確認してから、「私も帰って食べましょう」。それにしても、誰と囲むにせよ鍋が煮えてくるまでの間というのは、期待でワクワクする時間である。蕪村の句に「逢はぬ恋おもひ切る夜やふぐと汁」がある。『良夜』など三冊の句集のある康二には「少女には少女の夢のかるたかな」という句もある。『戸板康二句集』(2000)所収。(八木忠栄)


January 1312010

 手を打つて死神笑ふ河豚汁

                           矢田挿雲

はしかるべき店で河豚を食べる分には、ほとんど危険はなくなった。むしろ河豚をおそるおそる食べた時代が何となく懐かしい――とさえ言っていいかもしれない。それにしても死神が「手を打つて」笑うとは、じつに不気味で怖い設定である。あそこに一人、こちらに一人という河豚の犠牲者に、死神が思わず手を打って笑い喜んだ時代が確かにあった。あるいはなかなか河豚にあたる確率が低くなったから、たまにあたった人が出ると、死神が思わず手を打って「ありがてえ!」と喜んだのかもしれない。落語の「らくだ」は、長屋で乱暴者で嫌われ者のらくだという男が、ふぐにあたってふぐ(すぐ)死んでしまったところから噺が始まる。同じく落語の「死神」は、延命してあげた男にだまされる、そんな間抜けな死神が登場する。アジャラカモクレンキューライス、テケレッツノパー。芭蕉にはよく知られた「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」と胸をなぜおろした句がある。西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」という、いかにも三鬼らしい傑作があるし、吉井勇には「極道に生れて河豚のうまさかな」という傑作があって頷ける。強がりか否かは知らないけれど、河豚の毒を前にして人はさまざまである。挿雲は正岡子規の門下だった。大正八年に俳誌「俳句と批評」を創刊し、俳人として活躍した時期があった。ほかに「河豚食はぬ前こそ命惜みけれ」という句もある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(八木忠栄)


December 22122010

 極道に生れて河豚のうまさかな

                           吉井 勇

豚チリの材料は、今やスーパーでも売っているから家庭でも容易に食べられる。とはいえ、河豚の毒を軽々に考えるのは危険だ。けれども、それほど怖がられないという風潮があるように思う。まかり間違えば毒にズドン!とやられかねない。この場合、河豚は鍋であれ刺身であれ、滅多なことには恐れることなく放蕩や遊侠に明け暮れる極道者が、「こんなにうまいものを!」と見栄を切って舌鼓を打っているのだ。ここで勇は自分を「極道」と決めつけているのである。遊蕩と耽美頽唐の歌風で知られた歌人・勇の自称「極道」はカッコいい。恐る恐る食べるというより、虚勢であるにせよ得意満面といった様子がうかがわれる。極道者はそうでなくてはなるまい。「河豚鍋」という落語がある。旦那は河豚をもらったが怖くて食べられない。出入りの男に毒味をさせようと考えて、少しだけ持たせてやる。二、三日して男に別状がないので、旦那は安心して食べる。男「食べましたか?」旦那「ああ、うまかったよ」男「それなら私も帰って食べよう」。ーーそんな時代もあった。原話は十返舎一九の作。蕪村には「逢はぬ恋おもひ切る夜やふぐと汁」があり、西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」がある。いかにも。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


December 28122011

 てっさてっちり年を忘れる雑炊や

                           阿部恭久

の鍋料理は各種あって、それぞれの味わいがある。鍋を囲んでの団欒に寒さも吹っ飛んでしまう。特に冬が旬のアンコウやカモもいいけれど、やはりフグが一番か。フグで年忘れとは豪儀なものだ。「てつ」は関西では「フグ」を意味するから、「てっさ」は「フグ刺」。「てっちり」は言うまでもなく「ちり鍋」つまり「フグ鍋」。「てつ」は「鉄砲」で、毒に当たれば死ぬということ。今はフグを食べる誰もが「鉄砲」も「毒」も本気で意識はしないだろうが、昔は美味と毒とが隣り合っていてスリリングではあれ、とても「年を忘れる」どころではなかったかもしれない。フグは「少々しびれるくらいでないとアイソがない」とうそぶく御仁もたまにいらっしゃる。 今冬、毒を除去しないフグを売って営業停止になった上野の大手魚屋さんがあった。落語の「らくだ」になってしまってはたまらない。もちろん、今でも油断はできない。掲句は刺身から雑炊に到るフグのフルコースで年を忘れるというわけだから、来年はきっといいことがあるでしょう。恭久の「食ふ輩」十句には「蕎麦で越し餅を食ひけり詣でけり」「大寒や但馬牛来たり食ひにけり」など食欲旺盛な句がならぶ。「生き事」7号(2011)所載。(八木忠栄)




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